福谷の歴史

福谷の歴史

『狩り場んじょ』のある村 -昔の狩場台地区のお話-

福谷の一帯の山林や住居地区を、土地の人々は昔から「狩り場んじょ」と呼んでいました。それは、明石の殿様が狩猟を行うための狩り場だったのです。

このあたりは、たくさんの狩りの獲物(えもの)が多く居たところだったようです。雉子(キジ)や、山鳥、ウサギ、イノシシ、キツネ、狸(タヌキ)、あるいは、野生の鹿もいたかもしれません。(福谷には、鹿の丘と言う地名を残す丘があります。)それほど昔は山奥だったのです。だから、「狩場(かりば)」になったと言われています。そして、山や林が開発され、西神ニュータウンができたときに、当時から呼んでいた地名を生かし狩場台となったのです。

この狩場台と隣接している、櫨谷町(はぜたにちょう)福谷地区は弥生時代中期(西暦250年頃)に近畿地区でも一番早くから櫨谷川沿いに稲作文化が芽生えたことが、いろいろな文献や、ニュータウン開発によって発見された埋蔵物(まいぞうぶつ)から知られています。

現在も、都市化する西区の中で多くの緑を残している福谷。

現在も、都市化する西区の中で多くの緑を残している福谷。

福谷の北に都市の広がる西神ニュータウン。

福谷の北に都市の広がる西神ニュータウン。

戦乱の時代、戦場となった村

また、この地区は、東西南北の道路が交差した地区でもあり人々の多く行き来する西国街道の要所とも言われてきました。(東に大山寺・南に明石漁港などがあります)それで、福谷の地名は、昔は街道の中心の村という意味で、「中村」と呼ばれていたそうです。

そんなかたちの集落だったために動乱の時代には(鎌倉時代(西暦1203年)から江戸時代(西暦1615年 大阪夏の陣)のはじめ頃まで)、「中村」は戦場になることが少なくなかったようです。

すでに、元弘3年(西暦1233年 鎌倉時代の終わり、南北朝時代のはじめ頃や室町時代)、南朝・護良親王の命により伊川谷・大山寺の僧兵が赤松軍(三木市出身の武将と言われています)に参加し、足利軍と戦ったことが記されています。

天正6年(西暦1578年 安土桃山時代)には、羽柴秀吉の西国攻めの時に、端谷城で櫨谷の農民も戦った記録が残されていて、天正7年(西暦1579年)、押部谷、高和の性海寺なども焼き討ちされたとあります。櫨谷の如意寺には多くの僧兵がいたそうなので、福谷の宝福寺も何かあったかもしれません。 そして、その翌年の天正8年(西暦1580年)に端谷寺は落城しています。「中村」と呼ばれていた「福谷」にも、中村城「福谷砦」・大神城「城が谷砦」があり、それぞれの時代に、大活躍した言い伝えが残されています。

福谷砦は端谷城の衣笠五郎左衛門が構え、尾根先端部にありました。現在の秋葉神社の位置です。城が谷砦は中村の村主が取り仕切っており、東西の台地上に旧道をはさんで四辻を向かい合わせの地形に高い位置に城を構えていました。おそらく、見張りやぐらに「狼煙守」を立てて、敵の襲来を監視していたことでしょう。敵を発見するや、ただちに、「狼煙」(薪の煙で合図する方法)を上げて、周囲のものたちに敵の攻めてきたことを知らせたのです。城が谷砦跡には、四つの郭の柱跡や、堀切、土塁などを残しています。(神戸母里線工事で発掘調査が行われています)

つまり、戦国動乱の時代は、この狩場台付近は戦場のまっただ中だったことがわかっています。その当時は、僧侶も、農民も、ほとんどの人びとが兵隊になって、僧兵や農兵として戦っていたようです。このあたりについては「農兵の住みたる集落」と言われてもきたものです。福谷には、この頃の無縁仏が800体とも1,000体とも有ったと伝えられ、福谷のところどころに祠(ほこら)が見受けられ、今もお参りされる方がいます。

平和な世、お殿様の狩り場となり多いに活躍した『福の谷…福谷』

この福谷辺りは、源平合戦・鎌倉の戦い・室町の戦い(南北朝・戦国時代)・安土桃山時代(信長・秀吉・家康らがおこなった戦い)の戦いが繰り広げられ、江戸時代の始めごろまで続いたことが知られています。 その後、徳川家康による動乱平定により、元和5年(西暦1619年 江戸時代)小笠原忠直が明石城を築き、明石藩にはいることになります。

この時代にはいると、戦いの言い伝えもなく、本当に平和な時代がやってきたようです。 しかしながら、そのような戦いの地となっていたためかどうかは定かではありませんが、このあたりの人は昔から、相撲や弓引き、走力などの競争を好む人が多かったようです。

戦国の時代が終わり、「中村」にも平和な日々が訪れたころ、「中村」の山林には狩りの獲物が多く生息していることが、猟師仲間の口から口へと広まり、明石の殿様の耳に入るようになります。狩りの好きだった殿様は、多くの共をしたがえて狩りをおこないました。村人たちも狩りの共に、道案内に、接待に…と村を挙げての大歓迎を行ったものです。(集落には、当時の弓や矢、とび(棒の端に鉄製の鉤の付いたもの)などを家宝として守っておられる家も何軒かあります。)

お殿様の接待には、山の谷の新米や、松茸を始め豊富にとれる茸類、朝採れ野菜、肉類は今日狩猟したばかりの獣、お酒は地元の濁り酒などをふるまったそうです。(山の谷の新米は、土壌が肥えていて、山から流れる伏流水や昼と夜の寒暖の差のために特においしい米なのです。)

お殿様によろこんでいただくための余興も、即席で村人の大好きな田舎相撲、畳を的にした弓引き、田んぼのあぜ道でのかけっこ競争、獅子舞もおどってみせていたようです。女の衆も、田植え踊りや盆踊りなどを踊ったのでしょう。

狩りの時期は、獣の繁殖期である春から夏を避け、秋から冬にかけて行っていたので、収穫の時期を重なっていました。現在も、11月15日から2月15日までの期間が狩猟のシーズンと聞いています、なお、福谷、狩場台のゴルフ場側山林や、この隣接地区の寺谷や押部谷の山林の一部では、現在も狩猟認可地区となっています。(この時期、山に入るときには十分気をつけてください。) このように行われた狩りでは、明石のお殿様も大喜びで、大きな年間行事に発展してゆきました。また、福谷の旧家に、お殿様が泊まったという記録も残されていて、風呂がまのあとや、かまどのえんとつも有るそうです。明石城の役人が宿泊した記録のある旧家もあるようです。

櫨谷神社では現在も、季節おりおりの祭礼が行われています。

櫨谷神社では現在も、季節おりおりの祭礼が行われています。

青年団や子供たちが中心となって多いに祭りは盛り上がります。

青年団や子供たちが中心となって多いに祭りは盛り上がります。

お祭りの写真

田舎相撲も多いににぎわう

ほかにも、明石のお殿様はたいそう相撲好きで、秋葉神社の境内に立派な相撲場を築き、近隣の力自慢をあつめ「田舎相撲」をはじめました。玉津、神出、押部谷、遠くは稲美からも力自慢があつまり、お殿様の前で相撲をとったそうです。福谷からも、若松中左衛門という、江戸時代末期、田舎相撲の頂点を極めたお相撲さんを生んでいます。現在もお墓がのこっており、子孫の方がお参りをしています。また、若杉佐一郎というお相撲さんは、大阪相撲の頭取(まとめ役)まで出世したそうです。玉津にも大阪相撲の横綱が出たと伝えられています。この相撲場あった秋葉神社では、最近までは、青年団が秋祭りにまわしを巻いて本格的に相撲をとっていましたが、現在では子供相撲が楽しまれています。

このようなお殿様の訪問による行事のおかげで、お殿様から多くの贈り物を授かっていたそうです。それまでは、戦国時代の戦場まっただなかで、集落はこれ以上ないというほど貧しい生活を強いられていたようですが、「中村」も徐々に元気を取り戻していきました。

その頃より、お殿様の一声で、村の名前を、「福の谷」…「福谷」にしてはどうかとすすめられ、集落の住民も大喜びで「福谷」という集落の地名に変えたのだそうです。

お祭りでは、男の子も女の子も元気に相撲をとります。

お祭りでは、男の子も女の子も元気に相撲をとります。

産業文化の発展から現代まで

お殿様の贈り物もさることながら、お供のひとからの、明石の町の生活文化を多く伝え聞き、産業文化も目覚しく発展することになりました。

  • 炭を焼く人もたくさん出てきました。(炭焼き小屋)
  • お米をつく水車小屋が2軒ほどあったようです。(機械化することで、一度に多くのお米をつくことができるようになりました)
  • 寺子屋(後の福谷小学校)もできました。(学校制度)
  • 頼母子講(明治になりますと福谷信用組合に発展しています)などの、講(銀行)の制度が生まれました。
  • 紺屋(染物屋)ができました。(柄を染めこむ)
  • 薬やさんや旅人の宿(旅館を始める家もでてきました。
  • 大工、左官、屋根屋(自分たちの家は自分たちで建てた模様)
  • 鍛冶屋(秀吉が三木攻めの時に多くの職人を育てた・・鉄具の発達)
  • 目立て屋(木こりやこう引きの大きな鋸など)もあったと聞きます。(福谷は職人の村として言い伝えられてきました)
  • 勿論、猟師もいました。(今ではスポーツとしての狩猟を楽しんでいる方が多くいます)

また、協同でものづくりを行うこともはじまりました。個人の物を持ち寄ることには、お殿様も気を使われたとのことで、誰が言うともなしに、殿様のために協同で共有田での米作り、糀(こうじ)の製造(濁り酒造り)などを始めたとのことです。共有田(のちの青年田)は、現在の農業公園の入り口付近で2反半(今の収穫で言うところの、1反で30kg入りの袋で15袋とれるようですので、30kg×37.5袋=1,125kg)ぐらいだそうです。(現在は国有林になっています)

また、糀造り(濁り酒造り)は定かな文献が残されていませんが、糀が谷(糀谷)あたりに協同の製造所があったのではないかという言い伝えもあります。(糀が谷の谷筋は細長く続き奥のつきあたりが崖となった地形で、年中湿度が高く、暖かい場所で、糀菌が繁殖しやすい土地柄だったようです。) 少し遅れて、会社組織が出てきました。醤油屋(しょうゆ醸造)(味噌)、材木屋(製材所)、瓦師屋(瓦製造業)、馬力屋(運送業)、馬車屋(乗り合い馬車)などがつぎつぎと設立され、どんどんと福谷は栄えてゆきました。

この、明石のお殿様の「狩場」が、福谷の地にあったために、いち早く都会の情報が持ち込まれ、また、戦乱のために貧しく暮らしていた集落住民が心を一つにして、明石のお殿様に仕えていたために、今の福谷があるというわけです。

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