櫨谷城主・衣笠氏の菩提寺。寺宝には薬師如来像、 地蔵菩薩座像、元三慈恵大師像などがある。
護国山宝福寺 天台宗 如意寺末寺
地蔵菩薩座像(長 一尺三寸)
『播磨鑑』に、「文永年中衣笠法眼為菩薩寺建立」とあり、櫨谷城主・衣笠氏の菩提寺であったことがわかります。寺宝には、薬師如来像、地蔵菩薩座像、元三慈恵太師像、三面大黒天、宝筐印塔(室町時代)があり、寺伝に文永元年(1264年)の創建であるとされています。
本堂西の薬師堂は、大正年間に東の薬師山から移転され、当時は麦わら葺きで、3~4年に一度葺き替えていました。昭和54年には現在の堂に新設されましたが、この薬師堂は現在、播州薬師霊場の四番札所となっています。堂内には、薬師如来、十二神将のほか、不動明王、水子地蔵尊、誕生仏などが安置されています。
平成8年に大修復を行い、新装成った本堂・庫裏などの落慶が11月4日に行われました。
また如意寺文書にある「寺社御改」の、櫨谷庄福谷村 護国山宝福寺に次のような記録があります。
「人王八十九代亀山印御宇文永年中衣笠法眼為菩提建立以来四百余年候 寺内山林明石御城主代々御免除 証文之地」
八十九代亀山天皇のご時世、文永年間に衣笠法眼の菩提を弔うために、宝福寺を建立した。以来四百年余りになるが、寺内の山林は代々の明石城主から寺領として認められてきた、というものです。
同様な記録は、満福寺、新長谷寺にも残されています。
宝福寺の本尊・地蔵菩薩像を解体したところ、頭部の内側の銘文から、天文13年(1554年)に三木市内の寺院に奉納されたものであることが分かりました。豊臣秀吉の三木合戦で寺が焼失したとき、戦火を逃れたお地蔵さんが宝福寺に祀られたものと見られます。戦国時代の混乱を生き延びた「強運の仏像」として、また新しい信仰の対象になると思います。(平成8年11月7日・神戸新聞で紹介)
護国山宝福寺本堂正面全景
宝福寺落慶法要の稚児行列
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